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ブラックスワン雑感。 煮え切らない感想が多いね。

2011/05/24 02:28
Twitterで流れてくる感想は微妙に態度保留なのが多い。すごく泣いたんだけど、感動したわけじゃない。とかね。なんかもやっとしたものが言葉の間に挟まってる。わかる。僕もこの映画をどう思っていいんだかまだいくらか持て余してる。他にも「ホラーやん。」てのもあった。これもよくわかる。

そういう微妙な評価は結局、特殊効果を交えたいくらかこけおどし的とも思える表現をどう捉えるかということかなと思う。
ホラー映画を楽しむ気分なら全然問題ない。むしろ高級な脅かし方で、大抵のことじゃ怖がらないぞと身構えてるホラー上級者の背筋を芯から凍らせることができるだろう。しかしこれはポップコーン片手に見るホラー映画じゃない。そこのところが違和感の理由だ。

この映画が目指した志の部分は評価していいんだと思う。人が高みを目指すことのその真実を描ききろうというわけだ。
いくらかの才能に恵まれた者が、それを完全なものにしようと正に血の滲む努力を繰り返し頂点を目指す。だれにでも与えられる「あなたのできる精一杯の努力をすればちゃんと神様が報いてくれるわ。」式のお手軽な頂点ではない。自分の全存在をかけて努力しても何かが足りなければなんの報いもない。その何かは真っ当なものとは限らない。薄汚いものだったり下らないものだったりする。何であれ足りなければ報いはない。そういうリアルな頂点だ。

監督ダーレン・アロノフスキーは努力を称えることはしない。全てをかけて頂点を目指すことは、全てをかけてきたからこそ底知れない恐怖との戦いでもある。アロノフスキーの興味はそちらへ向かう。なぜならそれが彼にとっての真実だからではないかと思う。ならば存分に、彼の信じる真実に向きあえばいい。ところがどうも必ずしもそうなっていない気がしている。

ナタリー・ポートマン演じるダンサーの恐怖を描くときに感じる「ホラーみたい」は、「ホラー映画みたいに怖い」ということじゃない。ホラー映画が人間をきちんと描くことよりも怖がらせることを優先させるあの感じのことだ。いや、この映画がホラー映画並みというのは言いすぎ。もしかして新しい表現で唸らせてやろうというような功名心がダンサーの真実を描ききることの邪魔をしちゃったりしてませんかね。くらいの感じか。


とはいえナタリー・ポートマンの迫真の姿に圧倒された。平日のガラガラの映画館で前の席の背もたれに抱きつき、震えながら泣いた。マチルダ教の信者なんでいくらか割り引いて聞いてもらう必要はあるが、役と同様自分の全存在をかけて演じる彼女の姿に打たれない人はないだろう。文句なしに素晴らしい。

彼女のファンとしては作品も込みで全力で褒めたいところなんだけど、多くの人同様解消しきれない違和感が残った。
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映画「麻薬3号」 雑感。

2011/05/07 20:34
先日、神戸の元町まで出かけて、元町あたりが舞台の映画「麻薬3号」を観てきた。

監督 古川卓巳
主演 長門裕之、南田洋子、大坂志郎
1958年 日活

なんといっても昭和三十年代の神戸の街の様子や、建物、港の風景などがすごくおもしろかった。映画に現れる建物のいくつかは今もまだ残っているものもあって、「あ、知ってる!」と心のなかで確認しながら観た。主人公がヤバい仕事を請け負うシーンが撮影されたジャヴァという喫茶店は、なんと今でも三宮の高架下で営業中。帰りに寄ってすっかり寂れた店内でコーヒーを飲んだ。

当時の神戸は戦争からまだ十分に復興していなくて、焼け野原みたいなところも一部残っていたようだ。混沌として、猥雑で、エネルギーに溢れてて、こちゃこちゃとちんまくて、何かが映るたびにおもしろくて懐かしくてしょうがなかった。入り組んだ裏通りの角を曲がると一体何に出くわすかかわからないような、まだいろんなモノが未分化の当時の雰囲気(僕が生まれる前だからもちろん想像)が良く出ている。街って、やっぱりワケのわからなさを含んでなければダメだとあらためて思う。整理し尽くされると街は死ぬんだわ。

ちょっと印象的なのは、坂の多い街だから、描かれる街の地べた周りは猥雑で薄汚くても、ビルの屋上や坂の上の下宿など、ちょっと高いところに上がると、そこから気持よく開けた風景が広がる。それが時々いい感じに挟み込まれてこの映画の印象をヌケの良い気持ちのいいものにしてる。そういうところもよかった。

時代から言ってもフィルム・ノワールを神戸を舞台に翻案したものなんだろう。主人公はぶっきらぼうにかっこつけてがんばってるし、当時としては斬新なトーンの映画なんだろうけれど、本家と比べるとずいぶん牧歌的だ。あるシーンで長門裕之演じる主人公のチンピラと本物のヤクザが対決せざるを得なくなるんだが、命のやりとりをしようと言うのに二人がお互い拳銃を捨てて素手で殴り合う。太陽がキラキラする波打ち際で。わははは。高校生か!とつっこみたくなるが、いやいや今の高校生はそんなにかわいくない。つっこむなら、だいぶ前の高校生か!だな。

他のエピソードも現代の感覚からすれば、甘すぎると感じるものが多いけれど、まあええやんかとも思った。
やっぱりフランス人みたいな酷薄さは日本人にはないんだからしょうがない。日本人らしさの範囲で無理なく描いたからこそイキイキとした部分もあるし、血なまぐさい映像に慣らされ鈍磨した感覚にもう一回潤いを与えてくれるような気もした。
もちろんこの時代に戻ることはできないのだけれど、これを許容した当時の人達の感覚、映画を取り巻く時代の雰囲気に触れて、今との距離を測れたような気もした。

長門裕之が若い頃は桑田佳祐そっくりなことや、南田洋子がビックリするくらいきれいなのも見ていて楽しかった。二人はこの映画がなれそめかなあ。とか、あれやこれやいろんなコトを思いながら観た。

映画史に残る傑作ではないけれど、当時の新しい映画の感覚を取り入れよく工夫されている。夢いっぱいに映画作り関わった人たちの懸命さが伝わってきて、観終わってからも気分が良かった。良作だと思う。

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